【実話ベース】隣はカラオケ付きスナック。迷うお客様のために、僕がママに「1曲歌ってもらえませんか」と頭を下げた話

隣のスナックのママに「1曲、歌ってください!」 現場の物語

※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。

プロフィール
この記事を書いた人
正 直(ただし なお)

はじめまして!「とんでも不動産」の正直です。

品川区のオフィス街にある「とんでも不動産」で、駆け出し営業マンとして毎日もがいています。入社して間もない僕のもとに、とんでもないご相談を持ち込むお客様が次々とやってきて、四苦八苦しながら業界の裏側を"正直"に学んでいる毎日です。

口癖は「ぶっちゃけますけど…」「同業者に怒られますけど…」。こんなこと教えたら僕の営業成績下がるんですけど、お部屋探しで損しないために必要な現場のリアルを、未熟ながら誠実にお届けします。

いつかは先輩、主任、店長…と昇進していく予定です(たぶん)。一緒に見守ってもらえたら嬉しいです!

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選挙に出る人の事務所

その日のお客様は、40代の男性だった。

細いフレームのメガネに、きちんとアイロンのかかったシャツ。名刺には、まだ肩書きが書かれていなかった。

「今度、選挙に出る予定でして。その事務所を探しているんです」

僕は少し背筋が伸びた。住む部屋を探すお客様は毎日のように来るけれど、「これから選挙に出る人」の事務所を探すのは、僕にとって初めてだった。

希望ははっきりしていた。

「人が気軽に入ってこられる場所がいいんです。できれば1階で、外から中が見えるくらい明るいところ」

支援してくれる人が集まる。近所の人がふらっと立ち寄る。電話がひっきりなしに鳴る。そういう場所になるんだろうな、と僕は思った。

間口の広い、明るい1階

何件か回って、その物件に着いた。

1階で、間口が広い。ガラス張りの正面から午後の光がたっぷり入って、奥のほうまで明るかった。

お客様は入り口に立ったまま、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくり中を歩いた。ここに受付の机。ここにポスター。ここで打ち合わせ。メガネの奥の目が、もうその光景を見ているのがわかった。

「……いいですね、ここ」

声が、少しだけ弾んでいた。

僕は心の中で小さくガッツポーズをした。いける。これは決まる。

ガラス張りの明るい1階の事務所で、嬉しそうに室内を見回すお客様と正直くん

隣の看板

内見を終えて、周りの環境も見ておきましょう、と二人で建物の外に出た。

駅までの道、人通り、近くのコンビニ。お客様は一つずつうなずいていた。

そして、建物のすぐ隣まで来たとき、二人の足が同時に止まった。

看板が出ていた。

「スナック」。その下に、小さく「カラオケ」。

昼間なので、店は閉まっていた。でも、夜になればここでマイクが握られる。それは看板が十分に教えてくれた。

お客様が、ぽつりと言った。

「……隣、カラオケなんですね」

さっきまで弾んでいた声が、平らになっていた。

「夜に打ち合わせをすることも多いと思うんです。支援者の方と電話で話すことも。そのときに歌が聞こえてきたら……」

言葉はそこで止まったけれど、言いたいことはよくわかった。大事な電話の向こうで、こぶしの効いた演歌が流れていたら。

「少し、考えさせてもらってもいいですか」

その「考えさせて」が、どういう意味なのか。この仕事を少しやっていれば、わかる。たいていの場合、それは「やめておきます」の、やわらかい言い方だ。

事務所の隣のカラオケスナックの看板を見上げて立ち止まる二人

「ちょっと行ってきます!」

僕は、もう一度、看板を見た。

壁の厚さも、防音がどうなっているかも、図面を見たってわからない。「たぶん大丈夫だと思いますよ」と言うのは簡単だ。でも、それは僕の「たぶん」でしかない。お客様が欲しいのは「たぶん」じゃなくて、確かめた答えだ。

だったら、確かめればいい。

店の扉の、すりガラスの奥に、うっすら明かりがついているのが見えた。

誰か、いる。

「すみません、ちょっと行ってきます!」

「え? どこへ……」

お客様の声を背中で聞きながら、僕はもうスナックの扉に手をかけていた。

営業前のスナック

カラン、とベルが鳴った。

昼過ぎの店の中は、夜の顔とはまるで違った。カウンターの上にはおしぼりの束、グラスが逆さまに並んでいる。奥のほうで、着物ではなくエプロン姿の女性が、仕込みの手を止めてこっちを見た。

この店のママだった。

「まだやってないわよ」

「すみません、お客ではないんです。僕、隣の物件をご案内している不動産屋なんですが……」

心臓がうるさかった。何を言おうとしているのか、自分でもまだ半分わかっていなかった。

「隣の事務所を気に入ってくださっているお客様がいるんです。でも、こちらのカラオケの音がどれくらい響くのか、それだけが気になっていて」

ママの眉が、少し動いた。

僕は、思い切って頭を下げた。

「1曲だけ、歌っていただけませんか!」

一瞬、店の中がしんとした。

それから、ママが吹き出した。

「やだ、なにそれ。昼間っから?」

笑いながら、エプロンの紐をほどいた。

「いいわよ。1曲でいいのね?」

営業前のスナックで、ママに深々と頭を下げる正直くん

演歌と、合いの手

僕はいったん外に飛び出して、お客様に事情を話した。

「今からママが歌ってくださいます。隣の事務所の中で、どれくらい聞こえるか確かめてもらえますか」

お客様は、ぽかんとした顔をしていた。それから、少しだけ笑って、物件の中に入っていった。

僕は店に戻った。

ママはもうマイクを握っていた。カラオケの機械に灯りが入り、イントロが流れ出す。

演歌だった。

昼下がりの、誰もいないスナック。客は僕一人。ママは目を閉じて、一音目から本気だった。こぶしが回る。サビに向かって声が伸びていく。

気づいたら、僕は手を叩いていた。

「よっ!」

合いの手を入れるたびに、ママの声がもう一段高くなる。隣の事務所で、お客様はいま何を聞いているんだろう。この声が、壁を越えて届いているのか、いないのか。

サビが来た。ママの声が、いちばん高いところまで上がった、そのとき。

カラン、とベルが鳴った。

演歌を熱唱するママと手を叩く正直くん、入口からのぞき込むお客様

「問題ないです!」

扉のところに、お客様が立っていた。

息が少し上がっていた。メガネの奥の目が、さっき内見をしていたときと同じように、弾んでいた。

「ほとんど聞こえません! 音、問題ないです!」

ママは歌いながら、マイクを持っていないほうの手で、お客様に小さく手を振った。

僕は、その場で拍手を続けた。合いの手のつもりだったのか、自分へのご褒美だったのか、もうよくわからなかった。

曲が終わった。

「いい歌声でした。本当に、ご協力ありがとうございました」

僕が深く頭を下げると、ママは「こんなお願い、初めてよ」と、まんざらでもない顔で笑った。

その場で、お客様は言った。

「ここに決めます」

数日後、正式にお申し込みをいただいた。

これが、営業だ

店に戻る道、僕はずっと、あの演歌のメロディを口の中で転がしていた。

物件を探して、案内して、条件を説明して、書類をそろえる。不動産屋の仕事のほとんどは、地味な積み重ねだ。

でもあの日、僕は初めて、自分の足で答えを取りに行った。

「たぶん大丈夫です」じゃなく、「確かめました」と言えた。

知らないお店の扉を開けて、知らない人に頭を下げて、昼間のスナックで演歌に合いの手を入れた。教科書にも、研修にも、そんなやり方は載っていない。

それでも、メガネの奥のあの目が、もう一度弾んだのを見たとき、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

ああ、これだ。

これが、”営業”なんだ。

あの事務所の前を通るたびに、今でも僕は、ほんの少しだけ耳を澄ましてしまう。

隣の店から、あの日の演歌が聞こえてこないかと思って。

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