※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。
鍵は二本
この仕事を始めて、まだ間もないころの話だ。
「二人で住める部屋を探しています」
カウンターの向こうに、同じ年ごろの女性が二人、並んで座った。専門学校の同級生で、社会人になって三年目だという。仮に、サキさんとユイさんとしておく。
「一人だと家賃がきついけど、二人なら少しいい部屋に住めるかなって」
希望ははっきりしていた。部屋の広さが同じで、お互いの部屋を通らずに出入りできること。いわゆる「振り分けタイプ」だ。
何件か案内して、ある2DKの廊下で、二人の足が止まった。右に一部屋、左に一部屋。真ん中にダイニングキッチン。広さはほぼ同じ。
「こっち、私でいい?」
「いいよ。じゃあ私はこっち」
部屋割りは十秒で決まった。
申込をいただき、保証会社の審査が通り、契約の日。契約は二人とも借主になる「連名契約」で、契約書の借主欄に二つの名前が並んだ。家賃は折半、敷金も二人で出し合った。
鍵は二本、お渡しした。
こういう友達同士っていいな、と僕は思っていた。

二年後、一人で
それから二年近く経った、ある平日の夕方。
サキさんが、一人で店に来た。
「相談があって」
あの日、廊下で笑っていた顔ではなかった。
聞けば、ユイさんに彼氏ができたのだという。先月、荷物を運び出して、彼の家に移った。鍵は部屋に置いてあった。サキさんが知ったのは、荷物がなくなった後だった。
「家賃、折半だったんです。それが急に全額になって。今月は貯金でなんとかしました。でも、来月は無理です」
更新の案内は、もう届いていた。更新日は三週間後。更新料は家賃一か月分。
「払えません。引っ越したくても、初期費用がないんです。……ここに居られないのに、出られない」
最後の一言が、小さく震えた。
「敷金、私の分、返してほしい」
「それと」
サキさんがスマホを出した。ユイさんからのメッセージだった。
「敷金、私の分、返してほしい」
僕は画面を二度見した。
部屋を出て、家賃を払わなくなった相手から、敷金の半分を請求されている。しかもサキさんは、先月からその人の分の家賃を一人で払っている。
「ユイの言うことも、わかるんです。敷金は半分ずつ出したから。でも……」
スマホをしまったサキさんは、「どうすればいいか、わからなくて」と言った。

わかっていることと、わからないこと
正直に言うと、僕もすぐには答えが出なかった。
ただ、一つだけ決めていた。わからないまま「大丈夫ですよ」と言わないこと。
契約書を出して、わかっていることを順に説明した。
まず、連名契約なので、大家さんから見れば家賃を払う義務は二人にある。ユイさんが出て行っても、それは変わらない。ユイさんに家賃を請求できる立場に、サキさんはいる。
次に、敷金。これはいま大家さんが預かっているお金で、サキさんの手元にはない。戻ってくるのは退去して部屋を引き渡した後、原状回復の費用を引いた残りだ。ユイさんに「返してほしい」と言われても、いま渡せるお金はどこにもない。戻ってきたあとの分け方は、二人で決めることだ。
そして、更新料。
ここで僕は、カレンダーを見た。
更新日まで三週間。解約には、契約書で決められた一か月前の予告がいる。今日解約を申し出ても、退去は早くて一か月後。更新日をまたぐ。
まだ転居先も決まっていない。探して、申込をして、審査を通して、契約して。どう数えても、更新日のほうが先に来る。
出て行くと決めた部屋の更新料を、一人で払う。それは重すぎた。
「更新料のことだけ、少し待ってください。オーナーさんに相談してみます」
「そんなこと、できるんですか」
「わかりません。でも、聞かずに諦めるのは違うと思います」
オーナーさんへの電話
サキさんに少し待ってもらい、僕はその場でオーナーさんに電話をかけた。
正直に全部話した。二人で借りていた部屋の片方が出て行ったこと。残った一人が家賃を全額払っていること。転居先を探しているが、更新日には間に合わないこと。
そして、お願いした。
「転居先が決まって退去するまでの間、更新料をいただかずに、そのまま住まわせていただけませんか。家賃はこれまでどおりお支払いします」
受話器の向こうで、少し間があった。
「その子、二年間ちゃんと払ってきたんだよね」
「はい。一度も遅れていません」
「じゃあ、いいよ。次が決まるまでね」
僕は受話器を持ったまま、頭を下げていた。
更新料は、契約で決めるお金だ。貸す側が「今回はいらない」と言えば、それで済む。法律が助けてくれたわけではない。二年間きちんと払ってきたサキさんの積み重ねが、オーナーさんを動かした。それだけのことだ。
電話を切って、カウンターに戻った。
「次が決まるまで、更新料はいらないそうです」
サキさんは、しばらく何も言わなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのに、ずいぶん時間がかかった。

初期費用を抑える、ということ
ここからが、僕の仕事だった。
条件は一つ。初期費用が、いまの貯金で払えること。
礼金がない部屋。敷金が一か月分の部屋。家賃は、一人で払える額まで下げる。広さは、二の次。
一週間ほどで、候補を三つ出した。サキさんが選んだのは、礼金なしの1K。前の部屋の、片方の部屋くらいの広さしかない。でも駅から近くて、日当たりがよかった。
申込、審査、そして契約。
今度の契約書の借主欄には、一つしか名前が入らない。サキさんはそこに、自分の名前を書いた。
書き終えてペンを置き、ぽつりと言った。
「一人の名前って、こんなに軽いんですね」
僕は、うまく返せなかった。でも、サキさんの顔は、二年前に廊下で笑っていた顔に、少しだけ近づいていた。
鍵は一本
同じ週に、前の部屋の解約手続きも進めた。連名契約の解約には二人の署名がいる。ユイさんの分は、サキさんが取りに行った。敷金の分け方も、そのとき二人で話をつけたらしい。中身は聞かなかった。戻ってきたサキさんは、「終わりました」とだけ言った。
新しい部屋の契約開始日。
サキさんが店に来て、初期費用の入金を確認して、僕は鍵をお渡しした。
一本だった。
二年前、この同じカウンターで、僕は二本の鍵を渡した。今日は一本。
サキさんは、その鍵をしばらく手のひらに乗せて見ていた。
「軽いですね、これも」
そう言って、少し笑った。

二本と、一本
数週間後、前の部屋の退去立会いが終わり、敷金の精算書が届いた。原状回復の費用を引いた残りが、サキさんの口座に戻った。それをユイさんとどうしたのかは、やっぱり聞いていない。
二年前、僕は二人でちょうど半分に分けられる部屋を探した。今回は、誰とも分けなくていい部屋を探した。
どちらも、同じ仕事だ。誰かと暮らすための部屋を探すのも、誰かと別れたあとの部屋を探すのも。
ただ、渡す鍵の本数だけが、違った。
二本の鍵を渡したとき、僕はこの二人がずっとこのまま楽しくやっていくと、勝手に思っていた。一本の鍵を渡したとき、僕は何も思わないようにした。先のことは、誰にもわからない。
それでも、帰り際のサキさんの背中は、来店した日より少しだけまっすぐだった。
それだけで、十分だと思った。


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