【実話ベース】結婚式の招待状100部に刷った新居の住所が「存在しない番地」だった夜の話

その番地は、存在しません 現場の物語

※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。

プロフィール
この記事を書いた人
正 直(ただし なお)

はじめまして!「とんでも不動産」の正直です。

品川区のオフィス街にある「とんでも不動産」で、駆け出し営業マンとして毎日もがいています。入社して間もない僕のもとに、とんでもないご相談を持ち込むお客様が次々とやってきて、四苦八苦しながら業界の裏側を"正直"に学んでいる毎日です。

口癖は「ぶっちゃけますけど…」「同業者に怒られますけど…」。こんなこと教えたら僕の営業成績下がるんですけど、お部屋探しで損しないために必要な現場のリアルを、未熟ながら誠実にお届けします。

いつかは先輩、主任、店長…と昇進していく予定です(たぶん)。一緒に見守ってもらえたら嬉しいです!

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静かな二人

そのご夫婦は、とても静かなお客様だった。

入籍したばかりの新婚さん。ご主人も奥さんも口数が少なく、内見でも「いいですね」「そうですね」くらいしか言わない。僕が部屋の良いところを一生懸命しゃべっても、二人はうなずいて、メジャーで窓の幅を測って、それでおしまい。

正直に言うと、最初は少し不安だった。気に入ってもらえているのか、まったくわからない。

でも、帰り際にご主人がぽつりと言った。

「ここにします」

それだけだった。迷いのない一言だった。

言葉の少ない二人と、窓の幅を測るメジャー

あとで奥さんが教えてくれた。引っ越しが落ち着いたら、結婚式を挙げる予定なんです、と。新しい家から、新しい生活を始めたいんです、と。

何もかも、順調だった

申込、審査、契約。全部すんなり進んだ。

契約の日、二人は契約書に並んで名前を書いた。新しい住所の欄を、奥さんが指でなぞっていたのを覚えている。ここが、これから二人の家になる。

鍵を渡して、引っ越しも無事に終わった。

「ありがとうございました」

ご主人から届いたメッセージは、やっぱり短かった。

僕は、いい仕事ができたと思っていた。

「そんな番地は、ありません」

引っ越しから少し経った日の夕方、店の電話が鳴った。ご主人だった。

いつもの淡々とした声ではなかった。

「どういうことですか。転居届を出したら、そんな住所は存在しないって言われたんですけど」

一瞬、何を言われているのかわからなかった。

「存在しない……ですか」

「契約書に書いてある住所です。番地の後ろの数字が、違うらしいです」

住所の最後の枝番。たった一つの数字が、実際の住所と違っていた。

僕は慌てて手元の契約書の控えを開いた。そこには、確かにその番地が書いてあった。契約書を作るときにも、読み合わせのときにも、僕は何も気づかなかった。管理会社も気づかなかった。誰も、気づかなかった。

受話器の向こうの「存在しない住所」

「本当に申し訳ありません。すぐに確認して、正しい住所をお伝えします」

そう言いかけた僕を、ご主人がさえぎった。

「住所だけの話じゃないんです」

100部の招待状

「結婚式の招待状、もう刷ったんです。その住所で」

僕は、言葉が出なかった。

招待状には、新居の住所を入れていた。返信はがきの宛先も、その住所。招待するのは、親戚、友人、職場の人たち。およそ100人。

その100部すべてに、存在しない番地が印刷されていた。

「これ、どうしてくれるんですか」

ご主人の声は、怒っていた。でも、怒鳴るのではなかった。静かな人が、静かなまま怒っているときの声だった。それが一番こたえた。

住所の枝番が一つ違っていても、たいていの場合は大きな問題にならない。郵便も、近くまで来れば配達員さんがなんとか届けてくれることが多い。正直に言えば、僕もどこかでそう思っていた。

でも、この二人にとっては違った。一生に一度の結婚式の、一番最初に大切な人へ届ける手紙に、間違った住所が刷られている。

「少しだけ、お時間をください」

管理会社の一言

電話を切って、すぐに管理会社に連絡した。契約書の住所が間違っていたこと。お客様が招待状を刷ってしまったこと。何か一緒に対応してもらえないか、ということ。

返ってきたのは、こんな一言だった。

「あー、すみません」

それで終わりだった。

住所の訂正はしてもらえる。でも、招待状のことは、こちらの関知するところではない。言葉にはしないけれど、電話の向こうの空気はそう言っていた。

受話器を置いて、僕はしばらく動けなかった。

確かに、法律や契約の上で、誰がどこまで責任を負うのかを決めるのは簡単ではない。でも、間違った番地は、僕が説明して、僕が「ここに名前を書いてください」と差し出した契約書に載っていた。

誰も動かないなら、僕が行くしかない。

夜8時の新居

その日の夜8時、僕は二人の新居のインターホンを押した。

ドアを開けてくれたのは奥さんだった。部屋の奥に、まだ開けていない段ボールがいくつか積んである。ローテーブルの上に、刷り上がった招待状の束が置いてあった。

「改めて、本当に申し訳ありませんでした。正しい住所で、刷り直させてください」

ご主人は「お願いします」とだけ言った。

それから、三人の作業が始まった。

夜8時、段ボールの部屋で刷り直す招待状

パソコンのデータの番地を一文字だけ直して、プリンターにかける。印刷された招待状を一枚ずつ確かめて、返信はがきの宛先も確かめて、そろえて重ねていく。

プリンターが紙を吸い込む音。用紙を補充する音。それ以外は、ほとんど誰もしゃべらなかった。

僕は何度か謝ろうとして、そのたびにやめた。謝罪の言葉を重ねても、招待状は一枚も刷り上がらない。今の僕にできるのは、手を動かすことだけだった。

二人は淡々としていた。怒っているのか、もう許してくれているのか、最後までわからなかった。

100枚目

最後の一枚がプリンターから出てきたとき、時計はかなり遅い時間を指していた。

新しい束の一番上の一枚を、僕はもう一度だけ確かめた。番地の後ろの数字。今度こそ、正しい。

「これで、全部です」

「ありがとうございました」

ご主人はそう言って、玄関まで送ってくれた。奥さんは軽く頭を下げた。笑顔はなかった。でも、冷たくもなかった。いつもの、静かな二人だった。

ドアが閉まった。

帰り道

駅までの道を、一人で歩いた。

駅までの、空っぽの帰り道

うれしくもなかった。悔しくもなかった。頭の中が、ただ空っぽだった。

ドラマみたいに「あなたがいてくれてよかった」と言われたわけでもない。お礼の品をもらったわけでもない。僕は、自分の見落としを、自分の手で元に戻しただけだ。マイナスを、ゼロに戻しただけだ。

結婚式は、たぶん無事に終わったと思う。

後日、100人の招待客は、受け取った招待状を見て、返信はがきに「出席」と書いて、ポストに入れたはずだ。はがきは正しい住所に、迷わず届いたはずだ。

その中の誰も、あの招待状が一度刷り直されたものだなんて知らない。夜8時の段ボールの部屋で、三人が黙ってプリンターの前に座っていたことも知らない。

それでいい。

誰にも気づかれずに、ちゃんと届く。

僕の仕事は、たぶん、そういうものなんだと思う。

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