※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。
「家賃を、もう少し下げたいんです」
その日、店に来られたのは4人家族のお父さんとお母さんだった。
お子さんは中学生と高校生。これから一番お金がかかる時期だ。塾、部活、受験、そのさきの進学。
「今の部屋には15年住んでいます。不満はないんです。ただ、家賃をもう少し抑えて、子どもたちのほうに回したくて」
お父さんは、少し申し訳なさそうにそう言った。

15年。僕がこの仕事を始めるよりずっと前から、その部屋で暮らしてきた家族だ。子どもたちは、あの部屋で生まれて、あの部屋で育ったことになる。
正直に言うと、このご相談はありがたい。家賃を下げたい、という目的がはっきりしているお客様は、迷いが少ない。僕は予算の内側で、今より少し駅から歩く部屋を中心に候補を集めた。
無事に決まった、はずだった
内見は3回。4人で見に行った部屋の中で、お母さんが「ここ、いいね」と小さく言った部屋があった。高校生の娘さんも黙ってうなずいていた。
申込、審査、契約。全部すんなり進んだ。15年間、家賃を一度も遅れずに払ってきたご家族だ。審査で止まる理由がない。
引っ越しの日、お父さんから「終わりました。ありがとうございました」と短いメッセージが届いた。
僕は店の奥で、ふうっと息を吐いた。いい仕事をした。そう思っていた。
そのときはまだ、何も知らなかった。
1週間後、悪魔の請求書
引っ越しから1週間ほど経った午後、お父さんから電話が来た。声の調子が、あの日とまったく違っていた。
「正直さん……前の部屋から、請求書が届いたんです。原状回復費用って書いてあって……60万円くらい、なんですけど」
「60万」
思わず聞き返した。

「敷金じゃ全然足りなくて。差額を払ってくださいって。これ、払わないといけないものなんでしょうか」
電話の向こうで、お父さんの声が少し震えていた。家賃を下げて、子どもたちのために少しでも残したいと言っていた人だ。その人のところに、引っ越しが終わったあとから、数十万円の持ち出しが降ってきた。
「お父さん、その請求書、まだ何も返事していないですよね」
「していません」
「よかった。一度、店に持ってきてもらえますか。見せてください」
明細を、一行ずつ読んだ
翌日、お父さんが持ってきた請求書を、僕は店のカウンターで一行ずつ読んだ。
クロス(壁紙)の張り替え。床の張り替え。ハウスクリーニング。設備の交換。細かい項目がずらっと並んで、下のほうに大きな合計金額が書いてある。
読みながら、ペンでひとつずつ印をつけていった。

15年。
その数字が、頭の中でずっと鳴っていた。
原状回復には、国土交通省が出している「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」というルールがある。そこには、こう書かれている。
普通に暮らしていてついた汚れや傷、年数が経って古くなった部分(通常損耗・経年劣化)は、借りた人ではなく貸した人の負担。
さらに、壁紙のような内装は年数で価値が減っていくと考える。たとえばクロスは6年でほぼ価値がなくなる扱いだ。15年住んだ部屋のクロスを「借主の負担で張り替え」と言うのは、ガイドラインの考え方にそもそも合わない。
そしてこの考え方は、2020年4月に施行された民法の改正で、法律の条文にもはっきり書かれた。通常の使い方で生じた損耗と、年数による変化は、借りた人に原状回復の義務はない。
一行ずつ印をつけながら、僕は何度も首をかしげた。
これも経年劣化。これも通常損耗。これも、15年住んでいたら当たり前につく跡。
借りた人が負担すべき項目が、見つからない。
全部読み終わって、僕はペンを置いた。
「お父さん。これ、払う必要のないものばっかりです」
「本当に、いいんですか」
お父さんは、半分ほっとして、半分まだ怖そうな顔をしていた。
「でも、向こうは不動産会社ですよね。プロが出してきた請求書を、素人の自分が『払いません』って言っていいんですか」
その気持ちは、よくわかる。15年間、きちんと家賃を払ってきた人ほど「迷惑をかけたくない」と思ってしまう。そして、その真面目さが、こういう請求書に押し切られてしまう。
僕はお父さんに、やってほしいことを紙に書いて渡した。
ひとつ。15年住んでいたこと、普通に暮らしてついた汚れや古くなった部分は貸主の負担だとガイドラインに書かれていることを、落ち着いて伝える。
ひとつ。それぞれの項目について「借主の故意や不注意でついた損傷なのか」「年数を考えてどう計算したのか」を、書面で説明してもらうように求める。
ひとつ。感情的にならない。喧嘩ではなく、根拠を聞くだけでいい。
「向こうが本当にプロなら、ガイドラインの話をされた時点で、わかるはずです。わかっていて出してきたのか、わからずに出してきたのかは、僕にはわかりません。でも、どちらにしても、聞かれたら答えないわけにはいかないんです」
お父さんは、紙を折ってポケットにしまった。
「やってみます」
書き換えられた見積書
数日後、お父さんからまた電話が来た。
「正直さん。見積書が、来ました。新しいのが」
声が、明るかった。
「金額が……ほとんど消えていて。敷金のほうが多いんです。つまり、敷金が、戻ってくるんです」
60万円の請求書が、数日で、敷金が戻ってくる見積書に変わった。
借主が負担すべき項目は、最初からほとんどなかった。それだけのことだった。でも、その「それだけのこと」を知らなければ、このご家族は、子どもたちのために削った家賃の何年分かを、引っ越しの直後に失っていた。
電話の向こうで、お父さんが言った。
「正直さんに相談しなかったら、たぶん払ってました。本当に、ありがとうございました」
15年分の「ありがとう」の、重さ
このご家族を僕が担当したのは、新しい部屋を探すところまでだ。前の部屋の退去は、本来、僕の仕事ではない。
でも、電話をもらったとき、「それは前の管理会社さんに聞いてください」とは言えなかった。家賃を下げたい、子どもたちに回したい、と申し訳なさそうに言っていたお父さんの顔が、頭から離れなかったからだ。
15年、同じ部屋で家族を育ててきた人が、最後にもらうものが「悪魔の請求書」であっていいわけがない。
その後、お母さんが新しい部屋の近くで買ったというお菓子を、店に持ってきてくれた。

「新しい部屋、子どもたちも気に入ってます。あのとき、正直さんがいてくれて本当によかった」
そう言って笑ったお母さんの顔を見ながら、僕はもうひとつ、別のことを考えていた。
この街には、今日もどこかで、同じような請求書を受け取っている人がいる。相談する人もいなくて、「プロが出してきたものだから」と、黙って振り込んでしまう人が。
その人たちのところには、僕は行けない。
だから、せめてここに書いておく。
15年住んだ部屋の壁紙を、あなたが払う必要はない。
それを知っている人が、ひとりでも増えてほしい。
この仕事を、正直にやっていくしかないな。
退去の見積書が届いた方へ
見積書の写真かPDFを読み込むと、項目ごとに「貸主負担・借主負担・年数で按分」の目安と、実際の見積書230通から集計した相場との比較を表示します。原状回復 見積書チェッカー(無料) 関連: 管理会社の精算記録31件で見た負担割合


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