【実話ベース】「別居したい」と相談に来て、初期費用の話で黙って帰ったお客様が、1年後に「ご無沙汰しております」と電話をくれた話

一年前に帰った、あの人から。「ご無沙汰しております」 現場の物語

※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。

プロフィール
この記事を書いた人
正 直(ただし なお)

はじめまして!「とんでも不動産」の正直です。

品川区のオフィス街にある「とんでも不動産」で、駆け出し営業マンとして毎日もがいています。入社して間もない僕のもとに、とんでもないご相談を持ち込むお客様が次々とやってきて、四苦八苦しながら業界の裏側を"正直"に学んでいる毎日です。

口癖は「ぶっちゃけますけど…」「同業者に怒られますけど…」。こんなこと教えたら僕の営業成績下がるんですけど、お部屋探しで損しないために必要な現場のリアルを、未熟ながら誠実にお届けします。

いつかは先輩、主任、店長…と昇進していく予定です(たぶん)。一緒に見守ってもらえたら嬉しいです!

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「別居は、引っ越さない」

この仕事をしていると、自分の中にいくつか「説」ができてくる。

そのうちの一つが、これだった。

「別居を考えている人は、引っ越さない」

ひどい言い方に聞こえるかもしれない。でも、本当にそうだった。

「夫と別居したくて」「妻と距離を置きたくて」と相談に来る方は、一定数いる。みなさん真剣だ。真剣だからこそ、こちらも真剣に説明する。

まず、初期費用。敷金、礼金、仲介手数料、保証会社の初回保証料、火災保険、鍵交換。家賃の四、五か月分は見ておいてほしい、と。

次に、入居審査。保証会社は収入を見る。仕事をしていないと、そこで止まる。

そして、引っ越しそのもの。荷物をどう分けるか、子供の学校はどうするか、住民票は。

ここまで話すと、たいていの方の顔が変わる。「少し考えます」と言って帰り、二度と来ない。悪いことじゃない。引っ越さないという選択が、その人にとって正しかったのだと思う。

だから僕の中で、それは「説」になっていた。別居の相談は、ほぼ成約しない。

その説を、たった一人のお客様が覆した。

一人で来た人

ある平日の昼過ぎだった。

三十代の女性が、一人で店に入ってきた。仮に、ミサキさんとしておく。

「あの、別居を考えていて。部屋って、どうやって借りるんでしょうか」

本当に、何も知らない人だった。敷金と礼金の違いも、保証会社という言葉も、初めて聞くという。結婚してからずっと、住まいのことは全部ご主人が決めていたそうだ。

「お子さんは」

「二人います。小学生と、保育園」

「お仕事は」

「今は、していません」

僕は紙を一枚出して、初期費用の内訳を書いた。家賃を仮に九万円とすると、敷金、礼金、仲介手数料、保証料、保険、鍵交換。合計を書いて、丸で囲んだ。四十万円を超えた。

ミサキさんは、その数字をじっと見ていた。

「それと、審査なんですが」

僕は言葉を選びながら、保証会社が収入を見ること、お仕事がない状態だと審査が難しいことを説明した。

ミサキさんは、ずっと紙を見ていた。顔を上げなかった。

「……わかりました。少し、考えます」

そう言って、頭を下げて、帰っていった。

また来ないだろうな、と思った。説のとおりだ。

その日、僕はお客様カードにミサキさんの名前と「別居希望・子2人・初期費用と審査で保留」とだけ書いて、ファイルに綴じた。

不動産店のカウンターで初期費用の内訳を紙に書く正直くんと、うつむいてその紙を見つめる女性

一年後の電話

それから、一年が経った。

ミサキさんのことは、正直に言うと、忘れかけていた。来店の記録はファイルの奥にあったけれど、開くことはなかった。

ある日の午後、電話が鳴った。

「ご無沙汰しております。一年ほど前に、別居の相談でお伺いした者なんですが」

名前を聞いて、一瞬で思い出した。お子さんが二人いて、仕事はしていないと言った、あの人だ。

「初期費用の目処が、つきました」

受話器の向こうの声は、一年前よりはっきりしていた。

「もう一度、お話を聞いていただけますか」

一年間、何があったのかは聞かなかった。聞かなくても、あの四十万円を超える数字を、この人は一年かけて用意したのだとわかった。

「もちろんです。いつでも来てください」

受話器を耳に当て、手元の顧客カードのファイルを見て目を見開く正直くん

「無職は、そのままなんです」

来店したミサキさんは、一年前とは別人のようだった。

希望の間取り、家賃の上限、エリア。全部、自分で決めてきていた。「子供二人と三人で住める、できれば学区の中で」。その条件も、ちゃんと言葉になっていた。

ただ一つ、変わっていないことがあった。

「仕事は、まだ見つかっていません。無職は、そのままなんです」

一年前、僕が「審査が難しい」と言った、あの部分だ。

でも今回は、僕のほうに一年前と違うものがあった。

「預貯金審査、というやり方があります」

収入ではなく、通帳の残高を見てもらう審査だ。どの保証会社でも使えるわけではないし、目安になる残高も会社によって違う。それでも、お仕事がない状態で部屋を借りる道が、ないわけではない。

ミサキさんの目が、少し大きくなった。

「それ、一年前に聞いていれば」

「すみません。でも、一年前は、初期費用のほうが先でしたから」

ミサキさんは、小さく笑った。「そうですね」と。

1DK、九万円

部屋探しは、三回の案内で決まった。

1DK。家賃は九万円ほど。駅から少し歩くが、学区の中で、保育園にも近い。子供二人と三人で住むには、正直、広くはない。でも、ミサキさんは迷わなかった。

「ここなら、三人で寝られます」

それが決め手だった。

申込書を書いてもらい、預貯金審査に必要な書類を揃えて、保証会社へ。数日後、審査が通った。

契約の日。ミサキさんは初期費用の振込確認書を出して、契約書に名前を書いた。

書き終えたとき、僕は何気なく言った。

「一年前は、お子さんが小学生と保育園でしたよね。もう一つ上ですか」

ミサキさんの手が止まった。

「……覚えて下さってたんだ」

その一言が、今でも残っている。

覚えていたのは、たぶん、「少し考えます」と帰った別居の相談の中で、本当にもう一度電話をかけてきた人が、ミサキさんだけだったからだ。

カウンターで契約書に署名する女性と、向かいで書類を見守る正直くん

お祭りで

それから数か月後の、夏の夕方だった。

店の近くの神社で、小さなお祭りがあった。帰りに寄り道して、屋台を見ていたら、後ろから声をかけられた。

「あの」

振り返ると、ミサキさんがいた。両手に、子供が一人ずつ。小学生の子はりんご飴を持っていて、下の子は半分寝かけていた。

「改めて、いい物件を見つけてくれて、ありがとうございます」

いえ、と言うのが精一杯だった。

ミサキさんは「じゃあ」と軽く頭を下げて、子供二人を連れて、提灯の並ぶ参道を歩いていった。

その背中は、一年前にうちの店を出ていった背中と、同じ人のものだとは思えなかった。

提灯の並ぶ夏祭りの参道。手前に正直くんの後ろ姿、その先を子供二人の手を引いて歩く女性

説は、覆された

「別居を考えている人は、引っ越さない」

その説は、間違ってはいなかったと思う。今でも、ほとんどの方は引っ越さない。初期費用と審査の壁は、本当に高い。

でも、説というのは、たった一人で覆る。

一年かけてお金を用意して、無職のまま審査を通して、三人で寝られる1DKを選んで、お祭りで「ありがとうございます」と言いに来てくれた人がいた。

僕はあの日、「また来ないだろうな」と思った。それが、恥ずかしい。

これからも別居の相談は来る。初期費用の紙を書いて、審査の話をして、たいていの方は「考えます」と帰るだろう。

それでも僕は、もう「また来ないだろうな」とは思わない。

「少し、考えます」と帰った人が、一年後に電話をかけてくることを、僕はもう知っているから。

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