※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。
三件目の部屋
その日のお客様は、20代のカップルだった。
初めての同棲。希望は1LDK、家賃は13万円くらいまで。彼女さんがスマホに保存してきた「理想の部屋」の画像を見せてくれて、彼氏さんはその横で「まあ、彼女が気に入ればいいです」と笑っていた。よくある、仲のいい二人だった。
一件目、二件目と見て、三件目。
鍵を開けて中に入った瞬間、彼女さんの声が変わった。
「えっ、ここ、いい」
日当たりのいいリビング。キッチンは対面式で、寝室は少し離れていて、クローゼットも広い。彼女さんは窓を開けて、ベランダに出て、キッチンに戻って、また窓のところに行った。
「ここにソファ置いて、ここにテレビで……」

彼氏さんは、少し後ろで部屋を眺めていた。うなずいてはいた。でも、僕はその顔が、一件目や二件目のときより静かなことに、そのときは気づいていなかった。
入り口の、黒
気になったのは、部屋を出たあとだった。
建物の隣に、立派な家があった。門が大きくて、塀が高い。その門の前に黒い車が停まっていて、横に黒い服の男の人が立っていた。
ただ立っているだけだ。何かをしているわけじゃない。
でも、目が合った。
そして、その目は、僕たち三人が建物を出てから、車に乗り込むまで、ずっとこっちを見ていた。

正直に言うと、最初は「なんだろう」くらいだった。お客様の家の前に、たまたま運転手さんが立っていただけかもしれない。立派な家なんだから、そういうこともある。
彼女さんは、気づいていなかった。まだ部屋の余韻の中にいて、「ベランダ、洗濯物けっこう干せそう」と彼氏さんに話していた。
僕は車のドアを開けて、二人を乗せて、エンジンをかけた。
帰りの車
店に戻る車の中は、変だった。
内見の帰りの車というのは、たいてい賑やかだ。「あの部屋よかったね」「でも収納が」と、お客様同士が話し始めて、僕は運転しながら相づちを打つ。
その日は、違った。
彼女さんは、ひとり楽しそうにしゃべっていた。「あの部屋にします」とまでは言わないけれど、もう頭の中はあの部屋で埋まっているのがわかった。
彼氏さんは、うん、うん、と答えるだけだった。
僕も、しゃべれなかった。
信号で止まるたびに、あの門の前の光景が頭に浮かんだ。黒い車。黒い服。じっとこっちを見ている目。
何かあったわけじゃない。何かを言われたわけでもない。確証なんて、何ひとつない。
でも、二人がこれから何年も暮らす部屋の、すぐ隣だ。
「ここ、いい」と言ったあの顔を、僕は忘れられなかった。彼女さんはこの部屋を気に入っている。たぶん、今日見た中でいちばん。それを、僕の「なんとなく」で潰していいのか。
営業としては、黙っているのが正解だ。申込をもらって、審査に進めば、それでひとつ数字が立つ。
それでも。
「実は……」
赤信号で、車が止まった。
僕は、前を見たまま、口を開いた。
「実は……気になることがありまして」
彼女さんの話が止まった。
「あの物件、やめませんか」
言ってしまった。
一瞬、車の中が、さっきよりもっと静かになった。
そして、後ろの席から、彼氏さんの声が飛んできた。
「ですよね!!」
びっくりするくらい、大きな声だった。

「俺も、あれ、気になってたんです。あの隣の家の前の……」
「はい。あの、黒い車の」
「そう、それ!」
彼女さんは、きょとんとしていた。
「え、何? 何の話?」
彼氏さんが説明した。建物の隣の家。門の前の車。黒い服の人。あの部屋にいる間ずっと、彼は窓から外を見るたびに、そのことを考えていたらしい。
「だから、あのとき静かだったの?」
「言いづらかったんだよ。お前、すごい気に入ってたから」
彼女さんは、少しの間、黙った。
それから、小さく「そっか」と言った。
「じゃあ、やめよ」
一件目
後日、二人はもう一度、僕の店に来てくれた。
決めたのは、一件目に見た部屋だった。

三件目に比べたら、リビングは少し狭い。キッチンも対面式ではない。でも駅から近くて、周りに大きな家もなく、夜もコンビニの明かりがある、ごく普通の住宅街だった。
申込書を書きながら、彼氏さんが言った。
「あの日、言ってくれてよかったです」
「正直、僕も、言うかどうか迷いました」
「でも、ああいうことを言ってくれる人のところで決めたいなって、思ったんですよ」
彼女さんは隣で、一件目の間取り図に、やっぱりソファとテレビの位置を書き込んでいた。
あの一言
あの門の前の人が、本当に何者だったのか、僕は知らない。
ただの運転手さんだったかもしれない。何でもない人だったかもしれない。何年か経った今でも、ふと「ひょっとしたら」と思うだけで、答えはない。
だから、あの日の僕の判断が正しかったのかどうかも、本当はわからない。
でも、ひとつだけ、はっきり覚えていることがある。
赤信号で止まった車の中で、「やめませんか」と言ったあとの、あの一瞬の静けさ。そして、それを破った「ですよね!!」という声。
あの声を聞いたとき、僕は、この仕事で何を売っているのかが、少しだけわかった気がした。
部屋じゃない。
「この人の言うことなら、信じていい」という、たったそれだけのことだった。



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