※この記事は、実際にあった出来事をもとに脚色した物語です。登場人物と物件は特定できないよう変えています。お金・法律・手続きの部分は事実のままです。
選挙に出る人の事務所
その日のお客様は、40代の男性だった。
細いフレームのメガネに、きちんとアイロンのかかったシャツ。名刺には、まだ肩書きが書かれていなかった。
「今度、選挙に出る予定でして。その事務所を探しているんです」
僕は少し背筋が伸びた。住む部屋を探すお客様は毎日のように来るけれど、「これから選挙に出る人」の事務所を探すのは、僕にとって初めてだった。
希望ははっきりしていた。
「人が気軽に入ってこられる場所がいいんです。できれば1階で、外から中が見えるくらい明るいところ」
支援してくれる人が集まる。近所の人がふらっと立ち寄る。電話がひっきりなしに鳴る。そういう場所になるんだろうな、と僕は思った。
間口の広い、明るい1階
何件か回って、その物件に着いた。
1階で、間口が広い。ガラス張りの正面から午後の光がたっぷり入って、奥のほうまで明るかった。
お客様は入り口に立ったまま、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくり中を歩いた。ここに受付の机。ここにポスター。ここで打ち合わせ。メガネの奥の目が、もうその光景を見ているのがわかった。
「……いいですね、ここ」
声が、少しだけ弾んでいた。
僕は心の中で小さくガッツポーズをした。いける。これは決まる。

隣の看板
内見を終えて、周りの環境も見ておきましょう、と二人で建物の外に出た。
駅までの道、人通り、近くのコンビニ。お客様は一つずつうなずいていた。
そして、建物のすぐ隣まで来たとき、二人の足が同時に止まった。
看板が出ていた。
「スナック」。その下に、小さく「カラオケ」。
昼間なので、店は閉まっていた。でも、夜になればここでマイクが握られる。それは看板が十分に教えてくれた。
お客様が、ぽつりと言った。
「……隣、カラオケなんですね」
さっきまで弾んでいた声が、平らになっていた。
「夜に打ち合わせをすることも多いと思うんです。支援者の方と電話で話すことも。そのときに歌が聞こえてきたら……」
言葉はそこで止まったけれど、言いたいことはよくわかった。大事な電話の向こうで、こぶしの効いた演歌が流れていたら。
「少し、考えさせてもらってもいいですか」
その「考えさせて」が、どういう意味なのか。この仕事を少しやっていれば、わかる。たいていの場合、それは「やめておきます」の、やわらかい言い方だ。

「ちょっと行ってきます!」
僕は、もう一度、看板を見た。
壁の厚さも、防音がどうなっているかも、図面を見たってわからない。「たぶん大丈夫だと思いますよ」と言うのは簡単だ。でも、それは僕の「たぶん」でしかない。お客様が欲しいのは「たぶん」じゃなくて、確かめた答えだ。
だったら、確かめればいい。
店の扉の、すりガラスの奥に、うっすら明かりがついているのが見えた。
誰か、いる。
「すみません、ちょっと行ってきます!」
「え? どこへ……」
お客様の声を背中で聞きながら、僕はもうスナックの扉に手をかけていた。
営業前のスナック
カラン、とベルが鳴った。
昼過ぎの店の中は、夜の顔とはまるで違った。カウンターの上にはおしぼりの束、グラスが逆さまに並んでいる。奥のほうで、着物ではなくエプロン姿の女性が、仕込みの手を止めてこっちを見た。
この店のママだった。
「まだやってないわよ」
「すみません、お客ではないんです。僕、隣の物件をご案内している不動産屋なんですが……」
心臓がうるさかった。何を言おうとしているのか、自分でもまだ半分わかっていなかった。
「隣の事務所を気に入ってくださっているお客様がいるんです。でも、こちらのカラオケの音がどれくらい響くのか、それだけが気になっていて」
ママの眉が、少し動いた。
僕は、思い切って頭を下げた。
「1曲だけ、歌っていただけませんか!」
一瞬、店の中がしんとした。
それから、ママが吹き出した。
「やだ、なにそれ。昼間っから?」
笑いながら、エプロンの紐をほどいた。
「いいわよ。1曲でいいのね?」

演歌と、合いの手
僕はいったん外に飛び出して、お客様に事情を話した。
「今からママが歌ってくださいます。隣の事務所の中で、どれくらい聞こえるか確かめてもらえますか」
お客様は、ぽかんとした顔をしていた。それから、少しだけ笑って、物件の中に入っていった。
僕は店に戻った。
ママはもうマイクを握っていた。カラオケの機械に灯りが入り、イントロが流れ出す。
演歌だった。
昼下がりの、誰もいないスナック。客は僕一人。ママは目を閉じて、一音目から本気だった。こぶしが回る。サビに向かって声が伸びていく。
気づいたら、僕は手を叩いていた。
「よっ!」
合いの手を入れるたびに、ママの声がもう一段高くなる。隣の事務所で、お客様はいま何を聞いているんだろう。この声が、壁を越えて届いているのか、いないのか。
サビが来た。ママの声が、いちばん高いところまで上がった、そのとき。
カラン、とベルが鳴った。

「問題ないです!」
扉のところに、お客様が立っていた。
息が少し上がっていた。メガネの奥の目が、さっき内見をしていたときと同じように、弾んでいた。
「ほとんど聞こえません! 音、問題ないです!」
ママは歌いながら、マイクを持っていないほうの手で、お客様に小さく手を振った。
僕は、その場で拍手を続けた。合いの手のつもりだったのか、自分へのご褒美だったのか、もうよくわからなかった。
曲が終わった。
「いい歌声でした。本当に、ご協力ありがとうございました」
僕が深く頭を下げると、ママは「こんなお願い、初めてよ」と、まんざらでもない顔で笑った。
その場で、お客様は言った。
「ここに決めます」
数日後、正式にお申し込みをいただいた。
これが、営業だ
店に戻る道、僕はずっと、あの演歌のメロディを口の中で転がしていた。
物件を探して、案内して、条件を説明して、書類をそろえる。不動産屋の仕事のほとんどは、地味な積み重ねだ。
でもあの日、僕は初めて、自分の足で答えを取りに行った。
「たぶん大丈夫です」じゃなく、「確かめました」と言えた。
知らないお店の扉を開けて、知らない人に頭を下げて、昼間のスナックで演歌に合いの手を入れた。教科書にも、研修にも、そんなやり方は載っていない。
それでも、メガネの奥のあの目が、もう一度弾んだのを見たとき、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
ああ、これだ。
これが、”営業”なんだ。
あの事務所の前を通るたびに、今でも僕は、ほんの少しだけ耳を澄ましてしまう。
隣の店から、あの日の演歌が聞こえてこないかと思って。


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